“平等”なディストピアのグロテスクさ
借金取りに追われていた青年(中村倫也)は、黄色いツナギを着たヒゲ面の男(山中聡)に助けられ、ある“町”に招待される。その町の住人は簡単な労働と引き換えに衣食住が保証されていた。この奇妙な町を戸惑いつつ受け入れるも、不信感も拭えずにいた青年は、ある日新しい住人の女性(石橋静河)と出会う。彼女は行方不明になった妹を探しにやって来たと言うのだが……。 「うだつのあがらない青年が奇妙な町に連れて来られる」という導入から、その場所の異常性をじわじわと、しかしはっきりと見せていくというのが基本的なプロットだ。とは言え、町は監獄というわけではなく、住人には行動の自由が与えられており、“紙”の受け渡しで同意を得ることで住人同士の性行為も認められていて、時おりバスに乗っての外出さえも許可されている。町の見た目は無機質ではあるが、清潔さも保たれているように見える。その暮らしを大いに楽しんでいる住人もいる。 そうにも関わらず(だからこそ)、その場所はやはり不気味でグロテスクなものに感じられる。その理由の筆頭は、住人が管理されたコミュニティに耽溺しているという、ディストピアの世界観が築かれているからだろう。 ディストピアはユートピア(理想郷)の対義語であり、SF作品では頻出する世界観だ。ディストピアは往々にして「表面上は効率的・理想的な社会とされている」が、「本質的には目的のために何かが犠牲にされていたり欺瞞に満ちている」というもの。「こうすれば幸せになれる」といった単一的な思想や価値観が強要されていたり、極端な格差ができていたり、多数のために少数が犠牲になることも多い。 ディストピアの作品群は、過度の管理社会を描いた映画『未来世紀ブラジル』(1985)、感情を禁じられた世界を描いた映画『リベリオン』(2002)など、枚挙にいとまがない。青年が未知の場所に連れてこられる冒頭のシチュエーションから、マンガの『自殺島』を思い出す人もいるだろう。 『人数の町』がそうしたディストピアとは一線を画すのは、住人たちが“平等”であること。住民たちは名前を名乗らずお互いに“フェロー”と呼び合い、全員が同じ簡単な労働を行っている。さらに家族を持つことは不平等の始まりであるとされ、個人での生活を強いられている。格差もなければ、何かを奪い合ったり争うこともない。 しかし、平等、つまりみんなが“同じ”にされてしまうことを突き詰めれば、何になるのか?それは人間としてではなく、“人数”として扱われる、ということではないか?という答えに行き着くというのが、この『人数の町』のさらにグロテスクなことだ。それは、劇中で表示される“数字”を見れば、より現実に根ざした恐怖を覚えるものだった。
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September 05, 2020 at 01:33PM
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「人間」ではなく「人数」として扱われる怖さ。中村倫也主演映画『人数の町』が示すもの(HARBOR BUSINESS Online) - Yahoo!ニュース
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