中国とつながりのあるハッカーが、新型コロナウイルスのワクチンの研究を狙っている──。米連邦捜査局(FBI)と米国土安全保障省が名指しで中国を非難したことが、波紋を呼んでいる。世界がウイルスの脅威と闘うなか、その重要な成果物を狙う行為は「見えない一線」を越えたと解釈されかねない。
TEXT BY LILY HAY NEWMAN
新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)が、国家ぐるみのハッキングにとって“最高の条件”をもたらしたのは周知の事実だろう。在宅勤務によって企業や組織のセキュリティが甘くなりがちなことから、デジタルスパイ活動を招きかねない。
こうしたなか米国政府は5月13日(米国時間)、中国とつながりのあるハッカーを名指しにしたうえで、スパイ活動のみならず、新型コロナウイルスのワクチン研究まで脅かしていると非難したのだ。
増加するサイバー攻撃
世界がパンデミックの封じ込めのためにワクチンを見つけようと急ぐなか、サイバー攻撃が増加していることについて研究者や政府高官たちは警告を繰り返してきた。そうした攻撃には諜報活動と関連する攻撃もあり、特に世界保健機関(WHO)のような公衆衛生機関を標的にしてきた。
ワクチン開発競争には、とりわけ大きな利害が影響している。多くの国がワクチン開発において国際協力を惜しまないと発言しているが、情報不足を補ったり、研究者が隠しているかもしれない情報を調べたりするために、スパイ行為に手を染める国があったとしても驚きではない。
だが、もしこうした行為がワクチン開発の邪魔になったり、開発にダメージを与えたりすれば、それは諜報活動にまつわる規範を犯すことになりかねない。米連邦捜査局(FBI)と米国土安全保障省のサイバーセキュリティ・インフラストラクチャー・セキュリティ庁(CISA)による共同声明は、まさにそのような行為に手を染めているとして中国を非難している。
「これらの行為者が新型コロナウイルス関連の研究ネットワークや職員から、ワクチンや治療、検査に関する貴重な知的財産と公衆衛生データを特定して違法に取得しようとする試みが観察されている」と、共同声明は述べている。「これらの情報の窃盗の可能性は、安全で効果的かつ効率的な治療法の開発を脅かしている」
微妙だった境界線がさらに曖昧に
この警告は、中国とつながりのある活動が具体的にどのように治療法の開発を妨げる可能性があるかについて、ほとんど詳細な説明をしていない。だが、研究機関が“デジタル防衛”を強化するために面倒な予防策をとらねばならないことで、研究に集中できなくなる恐れと関係しているのかもしれない。
「もしスパイ活動によってワクチン開発の取り組みに集中できなくなっているとすれば、CISAが声を上げてくれたことは歓迎すべきだと思います」と、コロンビア大学国際公共政策大学院でサイバー紛争の上級研究員を務めるジェイソン・ヒーリーは言う。
「もっとも、この声明では中国が国家の安全保障を確立したり、競争上の優位に立ったりするために情報を盗もうとしていると指摘しているわけではありません。もし米国が規範に関する議論を望んでいるのなら、それを直接の論点にして、こういうルールでやるべきだと訴えるべきです。米国もこういった分野の多くで活動していることは間違いないありません。中央情報局(CIA)と国家安全保障局(NSA)が何もしていないはずがありません」
スパイ技術と諜報活動の国際規範は、個別のルールの寄せ集めというよりは、各国が共同で取り組む課題である。どの国もスパイをすることに安全保障上の利益があり、可能であればスパイ行為に手を染める。それでも通常は暗黙の下に合意された禁止事項が存在しており、許容される行為と侵略行為とを区切っているのだ。
ところがこの数十年、デジタルスパイ活動の高まりによって各国がより幅広い情報にアクセスできるようになった。結果として、そもそも微妙だった境界線がさらに曖昧になった。
暗黙の抑制を各国が無視する理由
米国は長年にわたって、特に中国のサイバースパイ活動を阻もうとしてきた。15年に両国が画期的な合意に達したことで、民間セクターに対する攻撃のペースは落ちたように見えたが、この合意は特効薬ではなかったことがのちに明らかになった。
現時点で米国は、中国がある程度の情報収集と知的財産の窃盗を働くと予想している。その一方で、こうした行為をますます公に非難し、スパイ活動がエスカレートするなかで中国人ハッカーを起訴し、中国に制裁を課してきた。これらはすべてスパイ活動を抑止するための措置だったが、これまでのところ目に見える効果はほとんど生んでいない。
新型コロナウイルスのパンデミックによって追い詰められたことが、ハッキングに関するこうした暗黙の抑制を各国が無視する強烈な動機になっている。
「利害が非常に大きいことから、抑止が働く見通しは暗いですね」と、セキュリティ企業FireEyeで情報分析部門のディレクターを務めるジョン・ハルトクイストは言う。「治療法の開発機関に数カ国が侵入していることがわかっています。中国、ロシア、イランです。ほかにも多くの国が活動していると、わたしたちは考えています。今回の危機は無視することのできない重要なものなのです。通常通りの活動をしているところは、ほとんどないでしょう。どの国もこの問題に焦点を定め直していると思います」
見えない一線
CISAとFBIによる警告は、これほど多くの国々が同様の活動に手を染めているように見えるなかで、中国だけを名指しにした理由は述べていない。もっとも、すでに緊迫していた中国と米国の関係は、今回のパンデミックによってさらにもつれてきた。トランプ大統領をはじめとする米国高官のなかには、新型コロナウイルスの発生に関して中国を公然と非難しようとしてきた人々もいる。
ところが今回の声明に乗じて、ホワイトハウスや国務省が中国の行動を糾弾することはなかった。ということは、パンデミックの発生の責任は中国にあるという言説を補強することを目的として、今回の声明が出されたわけではないのかもしれない。あるいは、仮に中国に対してさらなる措置をとるとしても、どのような措置をとるべきなのか、ほかの省庁がまだ決めかねているだけなのかもしれない。
「地球規模のパンデミックは、あらゆる国家にとって明らかに実存的脅威であり、諜報機関にとって確かなターゲットになります」と、コロンビア大学のヒーリーは言う。「このパンデミックのペースと、各国の指導者が正確な統計データを発表しているかどうかについて、より多くを知ることは優先的な必要条件に違いありません。これは中国、ロシア、イランの3カ国に限りません。しかし、通常は許容される地政学的スパイ活動も、ワクチンと関連データにおいては強力に制限されるべきだという議論があります」
CISAとFBIの声明は、パンデミックにおいて許容されるスパイ活動の範囲について、米国政府が熟慮を重ねていることを示している。極端な場合、ワクチンその他の救命治療を開発している機関に対する攻撃的ハッキングは、見えない一線を越えたと解釈される。そして何らかの報復を正当化する可能性すらあるだろう。
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